2012年11月6日火曜日

11月5日練習

 
 サンボの世界でたまに耳にする「サンボらしさ」という言葉について考えてみたいと

思います。以前書かせて頂いた「サンボのイメージ」とも繋がる内容でしょう。

他の競技ではなかなか聞かれない言葉ですね。

サッカー選手に「サッカーらしいね」とか、ボクサーに「ボクシングっぽいね」などとは

なかなか言いませんね。

ですが サンボの世界、とりわけ日本のサンボの世界では時々耳にします。

では「らしさ」とは何でしょうか。抽象的な言葉です。

恐らくその個人のサンボに対するイメージが「らしい」といった言葉を出させるのでしょ

う。

言わんとする意味は理解できますし間違った表現でもないと思うのです。

ただ、言うまでも無い事ですがサンボは「らしさ」を競うスポーツでは勿論ありません。

サンボは護身術として生まれた格闘技であり、如何なる技術を駆使してもよい技です。

「サンボらしい」と決められた特定の技のみに審判の主観で点数が与えられたり引かれた

りするわけではありません。

たとえ「らしさ」が選手本人にあったとしても試合ともなれば勝負が第一で、「らしさ」

は二次的、三次的な事でしょうし、試合に臨む選手のサンボのイメージと、それを見る者

のイメージがまたく異なる場合などは当たり前にあるといってよいでしょう。

サンボらしさは各個人によって異なり、各々が追求するものであって 第三者に当てはめ

られる「型」ではありません。

私見ですが、ロシアでサンボを見るのと日本で見るのとではその印象は異なります。

モンゴルとロシアでも異なります。モンゴル相撲が国技の国のサンボがロシアのサ

ンボと同じである訳がありません。加えて言えばロシア国内でも異なるのです。

その要因を辿れば民族の特性という話にもなってゆくと考えられます。

バランスの良さが際立つ中央アジアの選手と、比較的腰高の欧州の選手では体に向く技が

異なるのも自然ななりゆきでしょう。

日本人のサンボで背負い投げや巴投げをよく目撃するのもその歴史的な差や日本の土壌的

背景から当然のことであり、これらを差して否定的な評価を下すのは早計と言わざるを得

ません。「如何に対応するか」が根幹だとすれば「らしさ」は枝葉であると考えるからです。

国柄によってサンボも変わるのです。

サンボにおける「対応力」を自国の伝統競技あるいは自身に馴染みのある技や、その体駆

に向いた技に求めるのはごく自然なことではないでしょうか。

余談ですが、数年前の国際大会でグルジア国の選手と対戦した時3回連続4ポイントの投

げ技で投げられた事がありました。12-0のテクニカル負け。

その技のどれもが全て足技でした。

帰国後、師に報告した時、「あいつらがどんな所に住んでいるか知っているだろう。あい

つらは足技も凄いんだよ。」と言われた事があります。

グルジア人だからといって膂力に任せた力技だけが「らしさ」では無い事を付け加えてお

きます。

そしてさらに負けたイイワケですがその選手は元世界王者でした(2階級下だったらし

い…イイワケになっていないか)。

先生の言葉はいつもなぞなぞの様でいて本質を突いています。

そして時間が経つにつれて味が出るのです。これから、運よくその言葉に触れる事の出来

る方々は一言〃聞き逃さず心で聴いて頂きたいと思います。

話を戻しますが個人のイメージする「らしさ」を他者に押しつける事は不自然で

あり護身術、格闘競技の本質から乖離しています。多様性のあるサンボでは尚の事です。

ただ、あえて斟酌すれば「強いと言われる“サンボ先進国”の実態に目を向け、大胆な発

想の転換を経験する事はプラスに働く事はあっても決してマイナスにはならない。」とい

う事ではないでしょうか。

日本のサンボ界で散見できる「なんでもかんでも特定の国」崇拝思考とは性格の異なる

え方です。技術理論を特定の国に頼らないが謙虚に学ぶ意識です

自身の可能性をさらにこじ開ける、目から鱗が落ちる体験はそんな時かもしれません。

また、後進達の目を、意識をそのように向けさせる事が出来ることもこれからの指導者と

しての資質かも知れません。

サンボは運よく?組み方、掴み方には頓着しません。

日本の武道には反対にそれがあります。それは基本となって誰にも学びやすく整理され体

系化に繋がっています。

サンボの「無頓着さ」は技の自由な発想を促す側面は確かにありますが、もしかすると素

人は学びにくいのですね。例えばコーチが変わった場合、それまでとは異なる技術体系に

なる場合もあり得るからです。

「学びにくさ」の話は以前この欄にも書かせて頂きました。また重複して恐縮ですが、こ

の学びにくさは学ぶ側に混乱を招き、その結果どの技も上達しない、熟成仕切らないと

いう事も起こり得ます。

同じ競技を学んでいるはずなのに教わる内容がまるで違えば「どっちかが間違っている

の?」と迷うでしょう。指導者が「これのみがサンボ」といった誤った指導をしていれば

尚更です。

迷えば納得の伴わない稽古となり上達しない。上達しなければ面白くないから競技から離

れてゆくのも無理からぬことです。しかしこの「学びにくさ」も実はサンボの理念が解決

すると思うのです。サンボはなぜこの「学びにくさ」を内包しているのかをまず考えてみ

ます。仮説にしばしお付き合いくださいませ。

サンボ造成当時に遡り、サンボ造成のなりゆきを考える時この「無頓着さ」は必要った

のかもしれません。広大なユーラシア大陸の各地域の闘士たちをもサンボに参加せる為

は最初から余りに細かな体系化は受け入れられないと考えてもおかしくありません。

さらに大雑把な推測ですが、最大公約数的ルールを決めて個々の選手の競技力向上

については各地方の格闘技のコーチに一任するというような過程はあったかもしれませ

ん。もしそうならここで連邦各国のサボに個性(多様性)が生まれた可能性は十分にあ

ります。勿論、紹介程度に共通の技術の周知もあたでしょう。しかし勝負となった時、

広く浅く(だったかどうかは判りませんが)周知さた技よりも自身の国の独特且つ得意

な技術を多用するのは当然でしょう(勿論ルール内で)。

そしてこの国ごと(各単位ごと)の個性(多様性)がサンボを「一つの競技」として俯瞰

した場合に学びにくさとして感ぜれるのではないでしょうか。

もしこの仮説が大きく間違ってもいなければ歴史的にもサンボには様々な技術や理論が存

在し得るということではないでしょうか。

サンボを学ぶ際は自身で技術を取捨選択し、あるいはどれも身に付け(すご

い!)、サンビストとしての対応力を高めてゆくという意識こそが必要と考えます。

また、その意識が「教わる」から「学ぶ」へといつしか変革をもたらし サンボ本来の「発想し 創造

するサンビスト」を創り上げることに繋がると思うのです。

闘いに於いて「サンボらしい」のかどうかは問題ではありません。

それは誰にも決められません。

闘いに対応出来得るかどうか、なのではないでしょうか。

ロシア人がサンボ世界大会決勝戦を制した技が小内刈りからの背負い投げだったなら、日

本のコーチは「あれはサンボじゃない」と言うのでしょうか。

反対に「素晴らしい連絡技だ。あれこそがサンボだ。」と日本のコーチが絶賛しても、選

手本人が「いやこれはJUDOの技です。」と言ったら本人の前で否定するのでしょうか。

さて皆さんは如何お考えになるでしょうか。

本川選手 丸島選手 若林選手 川田さんお父様と川田君 森田さん 松嶋会長 

本日練習に参加して下さった皆さん 大変お疲れ様でした。

また一緒に練習しましょう。