6月30日(月)は第5月曜日のため練習はございません。次回の定期練習は7月7日(月)午後7時からとなります。
Kawaguchi Wrestling Federation 埼玉県川口市西スポーツセンターでレスリングとサンボ(ジャケット・レスリング)の練習を行っています。初心者・出稽古歓迎!★11月24日(日)強化練習会 ★次回定期練習は12月9日(月)19時~。11/25 , 12/2はお休みです。★直前の変更の可能性がございます。参加ご希望の方は恐れ入りますが当公式ブログにて直前の情報をご確認くださいませ。お問い合わせ:kawaguchiwrestling@gmail.com
2014年6月26日木曜日
2014年6月19日木曜日
2014年6月18日水曜日
サンボ随想 ~まだ続く仮説~
サンボのような国際スポーツであれば個々の闘いにはそういった思想、国民性、
が色濃く反映する、そういった場面が随所に見られます。
Folkな相撲とはそれらの民族的発想が遊戯として自然発生したものと受け止めています。
それらがやがて祭祀と結び付いていくことで民族全体に広く浸透していったと
考えられるでしょう。
日本で言えば「奉納」といった感覚に近いものかも知れません。
祭祀冠婚時、慶事に併せてFolkなレスリングや相撲を取って彼らの神に慶んで頂くと
いう行為が今でも見られます。
そしてそれらの人的要素、技術的要素を孕んだサンボという国際競技では
最終的に力で封じて勝てばよいと考える人たち、その力を利用しようと発想する
人たちが同じユニフォームを纏いお同じマット上で相まみえるという事です。
様々な 技術観 価値観がぶつかり合うのが試合の場だということが言えるでしょう。
公平さを顕すスポーツなのだから、体重を同じにして闘うべきと考え、ならば力で封じ
て勝てる範囲だから、手段に拘るより結果重視と考えるか。
サンボの闘いも野戦、戦闘の仮想と捉えそれが無差別であろうと同体重であろうと
実現出来る技術を目指すべきと考えるか。 両者の発想の根底にあるものは何か。
一体何がそうさせるのでしょうか。
その発想回路の一例として、脳内の係数という視点で考えてみます。
母国の格技の情報が係数として人々の脳内に強く根付いていればサンボに
触れたとき 本人が出す答えが
「母国(身近な)の格技に似た競技」として出てくることは十分考えられます。
外からの情報や刺激 × 脳内の係数 = 反応 という公式です。
サンボ × 日本の相撲 = 「帯を取る技が非常に似ていて有効かも」
× レスリング = 「掴まれるとやりづらいがジャケット以外は同じか」
× 柔 道 = 「足関節があるが絞めがない。あとは柔道で闘える」
サンボや格闘技に限った話ではなく上記の公式はかなり広範囲に成り立つということ
が言えると思います。
とすると、数学の問題のようですが誰かがサンボに触れた時のその反応(答え)を
見れば、その方の持つ係数もなんとなく想像できるという事も言えるかもしれません。
以前当ブログでも書かせて頂きましたが、
サンボについて様々なイメージを皆さん持ってらっしゃるなぁと感じた事があります。
それら「サンボは○○だ」という言葉の背景には 謎めいた格闘技的なイメージを
サンボに対し持っていらしたり他競技との比較が主な発想の展開であったり、
ソ連は理想の大国で 継承した彼らだけが正解であるいうイメージを持っているのかな
という方もいます。 民族相撲の延長として研究対象にされているのかなという方も
いらっしゃいます。
赤、青で美しいという感覚の方もいる。
力技がその醍醐味だ、という声も聞きます。
皆さんがそれまで生きて来られた過程、経験の中でそういった係数が出来上がって
それと掛け合わされた答えなのですからその方にとってはそれが答えなのでしょう。
それが正しい、間違っているといった判断は何かルール違反でもしていない限り他人
が出来る事ではありませんし、それ以前に人間とはそういう生き物なのだという
事でしょう。
人間が生きているという事は刺激に対し必ず何か反応しているということです。
何が反応しているのか。
私は遺伝子が反応していると思うのです。
急に話題が飛躍するなぁと思われる方は いつものことだと思って流して下さいませ。
約60兆個あると言われる(1kgにつき約1兆個)人間の細胞ひとつひとつの中に
ある一つの遺伝子に書かれている情報は約30億と言われています。
それこそ古代のご先祖様から長い時間を掛けて受け継がれてきた人類の記憶と
生命を維持存続してゆく為の情報が私の中にも皆様のなかにもあるのです。
日常生活のこういう時にはこうする、という情報が事細かに書かれているのですね。
たとえば、「目にゴミが入ったら涙で出す」 「寒い時は震えて体温を上げようとする」
「骨が折れたら自然にくっつく」 「傷を負っても血を出してかさぶたを作って止める」
「疲れたら眠くして眠らせて回復しようとする」
「酒を飲みすぎたら吐き気を起こさせてアルコールを出そうとする(よくある・・)」
「手で熱いものを触ったら無意識に手を引っ込めたりさせてやけどを防ぐ」
などなど・・・。 これらのことは誰に教わったものでもなく
いつの間にか誰もが自然と無意識に身体がやってくれていることです。
遺伝子とは、意識的にも無意識的にもなにか
自分だけを常に守護してくれている非常に精緻なセンサーでもあり、
超がいくつも付くコンピューターのようです。
いや、そもそもコンピューターという概念では計り知れないのが生命ということ
かも知れません。
呼吸をする、瞬きをする、口に何か入ったら唾液を出して噛む、
なんていう無意識の動作も脳を形造る細胞がそういう遺伝子情報を働かせているとも
考えられます。
ちなみに「歩き方」を誰かに教わったという人にもあまりお目にかかりません。
赤ん坊が這い這いから立ち上がって自然に二足で歩くようになる。
その歩き方は一体どこから出てくるものなのか。
この成長の変化も誰に教わるでもなくいつの間にかそういう動きになっている。
直感やインスピレーションといった類のものも五感の上では感じられない
何かの「刺激」に対し敏感に何かが「反応」した「結果」かも知れません。
あまり難しく考えずに直感的に出した答えがその人にとっては結果的に正しかったり
することも、実は体内のウルトラスーパーコンピューターが瞬時に判断した
答えなのかもしれません。
まさに 「守護神さまは 外側にあるのではなく自分の内側に居る」という感じ
でしょうか。
ほぼ9割は無意識といわれる毎日の絶え間ない生活の生命表現はそれら遺伝子が
司っているとも言えるでしょう。
また、遺伝子は通常その5%~10%程度しか働いていない、つまり目覚めていない
状態で、残りの90%近くは眠ったままだと言われています。
その目覚めている、眠っているという割合がそのまま その人の適応の形、生命表現
に形となって現れるといえるでしょう。
そして遺伝子は外部からの情報も含め環境によっても影響を受け、その表現を
変えてゆくそうです。
アジアで育まれた遺伝子、欧米、アフリカ、中東・・・。
日本国内では北海道、九州、沖縄などの北と南。
マクロ的な視点ですが 遺伝子が環境に適応して表現を変えていると考えられます。
ただ、各人の中でどんな遺伝子が目覚めていて、また反対に眠っているかは
判りませんから、こればかりは型に嵌った考え方は持てませんが。
ではそういった遺伝子が日常生活を少し離れ、闘い、サンボの場ではどう働くかを
考えてみます。
一つの技、例えば「背負い投げ」を同じひとAさんが柔道とサンボの環境で
それぞれやってみたとします。
受けと取り、両者柔道着を着て畳の上で、つまり「柔道環境」で施したときと
サンボジャケットを着てシューズを履いてサンボマットの上で、つまり「サンボ環境」で
施した時では本人は同じようにやっているつもりでも体が着衣も含め自分の置かれた
環境の違いを敏感に察知し無意識にその動きのなかで体が「変化適応」している
といえるかも知れないのです。
本人は気付かなくても大変敏感なセンサーである体が反応しているとも言えます。
遺伝子の集合体ですから、体は。
例えばこの実験を全く別の格技出身の方が行えば予め持っている「係数」が
異なる訳ですから違った解釈・表現になるかもしれませんね。
人間の目の働きは、そのひとのいる場所の明るさによって光彩量を調節
していますね、瞳孔を収縮することによって。
これは無意識に身体が行っている働きでその場に適応しようとしている訳です。
この働きの係数は既に遺伝子に組み込まれた情報といえるでしょう。
それが光という情報と掛け合わされ瞳孔の収縮という答えを出している。
本人は全く気付きませんが。
体は大変敏感なセンサーであるという事は前述しました。その実例は上記のように
枚挙に暇がありません。
大なり小なりどんな「刺激」にも必ず何か「反応」をしている、という事です。
刺激に対する反応の結果はひとつの適応の形であるとも言えます。
そう考えるとサンボの理論として他競技との過度な差別化をしているとしたら
それはあまり意味が無いように感じますし、人為的でやや不自然にも思えます。
身体はしっかりその違いを判別しているのに。
人間が頭で考えた過度な差別化の知恵などたかが知れている。
そういう意味ではサンボに触れる機会、環境は多いほうがいいでしょうし装備品は
やはり専用のものにされたほうがより慣れるという事が言えます。
その過程において競技ルールに則した闘い方が自然に自身のものとなるのでは
ないでしょうか。
先ほどの目のお話になりますが、暗い所から急に明るい所に出ると眩しいですね。
しかしいずれ慣れてくるでしょう、自然な経過を経て。
その逆もあります。明るい所から急に薄暗い所に行くとよく見えませんが時間と共に
見えるようになってきます。
サンボも同じです。サンボの環境で、そのルールで身体ごと時間を積み重ねて
ゆけば自ずとその人に合った形が出来てくる。
他競技の経験者であればそれまでの武器も必ず変化適応してくる。
そしてその形は外にあるのではなく内側から出てくるものだと思うのです。
習うより慣れろ とはよく言ったものだと思います。
また続く・・・
が色濃く反映する、そういった場面が随所に見られます。
Folkな相撲とはそれらの民族的発想が遊戯として自然発生したものと受け止めています。
それらがやがて祭祀と結び付いていくことで民族全体に広く浸透していったと
考えられるでしょう。
日本で言えば「奉納」といった感覚に近いものかも知れません。
祭祀冠婚時、慶事に併せてFolkなレスリングや相撲を取って彼らの神に慶んで頂くと
いう行為が今でも見られます。
そしてそれらの人的要素、技術的要素を孕んだサンボという国際競技では
最終的に力で封じて勝てばよいと考える人たち、その力を利用しようと発想する
人たちが同じユニフォームを纏いお同じマット上で相まみえるという事です。
様々な 技術観 価値観がぶつかり合うのが試合の場だということが言えるでしょう。
公平さを顕すスポーツなのだから、体重を同じにして闘うべきと考え、ならば力で封じ
て勝てる範囲だから、手段に拘るより結果重視と考えるか。
サンボの闘いも野戦、戦闘の仮想と捉えそれが無差別であろうと同体重であろうと
実現出来る技術を目指すべきと考えるか。 両者の発想の根底にあるものは何か。
一体何がそうさせるのでしょうか。
その発想回路の一例として、脳内の係数という視点で考えてみます。
母国の格技の情報が係数として人々の脳内に強く根付いていればサンボに
触れたとき 本人が出す答えが
「母国(身近な)の格技に似た競技」として出てくることは十分考えられます。
外からの情報や刺激 × 脳内の係数 = 反応 という公式です。
サンボ × 日本の相撲 = 「帯を取る技が非常に似ていて有効かも」
× レスリング = 「掴まれるとやりづらいがジャケット以外は同じか」
× 柔 道 = 「足関節があるが絞めがない。あとは柔道で闘える」
サンボや格闘技に限った話ではなく上記の公式はかなり広範囲に成り立つということ
が言えると思います。
とすると、数学の問題のようですが誰かがサンボに触れた時のその反応(答え)を
見れば、その方の持つ係数もなんとなく想像できるという事も言えるかもしれません。
以前当ブログでも書かせて頂きましたが、
サンボについて様々なイメージを皆さん持ってらっしゃるなぁと感じた事があります。
それら「サンボは○○だ」という言葉の背景には 謎めいた格闘技的なイメージを
サンボに対し持っていらしたり他競技との比較が主な発想の展開であったり、
ソ連は理想の大国で 継承した彼らだけが正解であるいうイメージを持っているのかな
という方もいます。 民族相撲の延長として研究対象にされているのかなという方も
いらっしゃいます。
赤、青で美しいという感覚の方もいる。
力技がその醍醐味だ、という声も聞きます。
皆さんがそれまで生きて来られた過程、経験の中でそういった係数が出来上がって
それと掛け合わされた答えなのですからその方にとってはそれが答えなのでしょう。
それが正しい、間違っているといった判断は何かルール違反でもしていない限り他人
が出来る事ではありませんし、それ以前に人間とはそういう生き物なのだという
事でしょう。
人間が生きているという事は刺激に対し必ず何か反応しているということです。
何が反応しているのか。
私は遺伝子が反応していると思うのです。
急に話題が飛躍するなぁと思われる方は いつものことだと思って流して下さいませ。
約60兆個あると言われる(1kgにつき約1兆個)人間の細胞ひとつひとつの中に
ある一つの遺伝子に書かれている情報は約30億と言われています。
それこそ古代のご先祖様から長い時間を掛けて受け継がれてきた人類の記憶と
生命を維持存続してゆく為の情報が私の中にも皆様のなかにもあるのです。
日常生活のこういう時にはこうする、という情報が事細かに書かれているのですね。
たとえば、「目にゴミが入ったら涙で出す」 「寒い時は震えて体温を上げようとする」
「骨が折れたら自然にくっつく」 「傷を負っても血を出してかさぶたを作って止める」
「疲れたら眠くして眠らせて回復しようとする」
「酒を飲みすぎたら吐き気を起こさせてアルコールを出そうとする(よくある・・)」
「手で熱いものを触ったら無意識に手を引っ込めたりさせてやけどを防ぐ」
などなど・・・。 これらのことは誰に教わったものでもなく
いつの間にか誰もが自然と無意識に身体がやってくれていることです。
遺伝子とは、意識的にも無意識的にもなにか
自分だけを常に守護してくれている非常に精緻なセンサーでもあり、
超がいくつも付くコンピューターのようです。
いや、そもそもコンピューターという概念では計り知れないのが生命ということ
かも知れません。
呼吸をする、瞬きをする、口に何か入ったら唾液を出して噛む、
なんていう無意識の動作も脳を形造る細胞がそういう遺伝子情報を働かせているとも
考えられます。
ちなみに「歩き方」を誰かに教わったという人にもあまりお目にかかりません。
赤ん坊が這い這いから立ち上がって自然に二足で歩くようになる。
その歩き方は一体どこから出てくるものなのか。
この成長の変化も誰に教わるでもなくいつの間にかそういう動きになっている。
直感やインスピレーションといった類のものも五感の上では感じられない
何かの「刺激」に対し敏感に何かが「反応」した「結果」かも知れません。
あまり難しく考えずに直感的に出した答えがその人にとっては結果的に正しかったり
することも、実は体内のウルトラスーパーコンピューターが瞬時に判断した
答えなのかもしれません。
まさに 「守護神さまは 外側にあるのではなく自分の内側に居る」という感じ
でしょうか。
ほぼ9割は無意識といわれる毎日の絶え間ない生活の生命表現はそれら遺伝子が
司っているとも言えるでしょう。
また、遺伝子は通常その5%~10%程度しか働いていない、つまり目覚めていない
状態で、残りの90%近くは眠ったままだと言われています。
その目覚めている、眠っているという割合がそのまま その人の適応の形、生命表現
に形となって現れるといえるでしょう。
そして遺伝子は外部からの情報も含め環境によっても影響を受け、その表現を
変えてゆくそうです。
アジアで育まれた遺伝子、欧米、アフリカ、中東・・・。
日本国内では北海道、九州、沖縄などの北と南。
マクロ的な視点ですが 遺伝子が環境に適応して表現を変えていると考えられます。
ただ、各人の中でどんな遺伝子が目覚めていて、また反対に眠っているかは
判りませんから、こればかりは型に嵌った考え方は持てませんが。
ではそういった遺伝子が日常生活を少し離れ、闘い、サンボの場ではどう働くかを
考えてみます。
一つの技、例えば「背負い投げ」を同じひとAさんが柔道とサンボの環境で
それぞれやってみたとします。
受けと取り、両者柔道着を着て畳の上で、つまり「柔道環境」で施したときと
サンボジャケットを着てシューズを履いてサンボマットの上で、つまり「サンボ環境」で
施した時では本人は同じようにやっているつもりでも体が着衣も含め自分の置かれた
環境の違いを敏感に察知し無意識にその動きのなかで体が「変化適応」している
といえるかも知れないのです。
本人は気付かなくても大変敏感なセンサーである体が反応しているとも言えます。
遺伝子の集合体ですから、体は。
例えばこの実験を全く別の格技出身の方が行えば予め持っている「係数」が
異なる訳ですから違った解釈・表現になるかもしれませんね。
人間の目の働きは、そのひとのいる場所の明るさによって光彩量を調節
していますね、瞳孔を収縮することによって。
これは無意識に身体が行っている働きでその場に適応しようとしている訳です。
この働きの係数は既に遺伝子に組み込まれた情報といえるでしょう。
それが光という情報と掛け合わされ瞳孔の収縮という答えを出している。
本人は全く気付きませんが。
体は大変敏感なセンサーであるという事は前述しました。その実例は上記のように
枚挙に暇がありません。
大なり小なりどんな「刺激」にも必ず何か「反応」をしている、という事です。
刺激に対する反応の結果はひとつの適応の形であるとも言えます。
そう考えるとサンボの理論として他競技との過度な差別化をしているとしたら
それはあまり意味が無いように感じますし、人為的でやや不自然にも思えます。
身体はしっかりその違いを判別しているのに。
人間が頭で考えた過度な差別化の知恵などたかが知れている。
それよりもその環境に頭と体を慣れさせて時間を掛けて
自然な変化・適応を形成していったほうがよいと思うのは私だけでしょうか。
そういう意味ではサンボに触れる機会、環境は多いほうがいいでしょうし装備品はやはり専用のものにされたほうがより慣れるという事が言えます。
その過程において競技ルールに則した闘い方が自然に自身のものとなるのでは
ないでしょうか。
先ほどの目のお話になりますが、暗い所から急に明るい所に出ると眩しいですね。
しかしいずれ慣れてくるでしょう、自然な経過を経て。
その逆もあります。明るい所から急に薄暗い所に行くとよく見えませんが時間と共に
見えるようになってきます。
サンボも同じです。サンボの環境で、そのルールで身体ごと時間を積み重ねて
ゆけば自ずとその人に合った形が出来てくる。
他競技の経験者であればそれまでの武器も必ず変化適応してくる。
そしてその形は外にあるのではなく内側から出てくるものだと思うのです。
習うより慣れろ とはよく言ったものだと思います。
また続く・・・
2014年6月13日金曜日
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