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サンボって?

サンボは武器を持たない自己防衛術と翻訳されます。

サンボに興味をもってはいるけど実際の経験がない方なら

「どんな格闘技なんだろう」という問いが生まれると思います。


その問いへの答えですが

実はサンボには一つの決まった形や言葉が存在するわけではない

というのがその答えです。

これがサンボです、と示せるものはありませんということです。

裏を返せば、これはサンボではありませんというものも

ないということです。

でもサンボの技という言い方をするではないか

という問いも出てきます。

確かに競技内で頻繁に見られるテクニックは

そのように認識されやすいでしょう。

格闘技の情報空間もひとむかし前は足関節技などが

代表的なサンボの技のように取り上げられていたことも

あったと記憶しています。

ただ、厳密にはやはりサンボの、というよりそれも

サンボ競技のルールで認められたテクニックに過ぎないという

表現のほうが的確でしょう。

いわば是か否かの基準が無いのですから

これはサンボのテクニックであるとか

サンボのテクニックではないという表現が

当てはまらないのです。


では改めてサンボとはなにかを改めて言葉にしてみます


自己防衛を目的とする技はすべてサンボ(自己防衛)。


この解釈がもっとも適したものではないかと考えます。


これはサンボ認識の中心でもあり盲点でもあります。

決まった技や言葉が存在しない=あってはいけない 

ということではない、ということです。


これはなにを意味するかというと

サンボとは自己防衛というただひとつの目的があるのみで

技の名前や、武道に見られる道の理念などの有無や

テクニックの出どころは一切問わないということです。


方法論でサンボの独自性を語ろうとしたのが

日本のこれまでのサンボの言語空間でしたが

それは同時に混乱をも生み出しました。

ですが自己防衛という目的に焦点を移せば

たいへん理解しやすいことだということがわかると思います。


実はこの点が一部のサンボ愛好者が迷路に入り込んでしまう

入り口になっていたといってよいのではないかと思います。

これがサンボ式、あれは柔道式等々

といった解釈と認識ができあがってしまうような

言語空間があるからでしょう。


わかりやすく理解するために他の武術、例えば柔道と比較してみます。

サンボはルールからスタートしているものであり

柔道は形や道といった理念と技術が同時進行しているとも言えます。

サンボ競技において柔道と似た展開もありますが創設当時

目安として採り入れられた柔道の技術がその理由と考えてよいでしょう。

あくまで目安的なもので柔道における形のようなものではありません。

なので目安以外の技術であってもルールに則っていれば

競技においては審判団が数字やジェスチャーで評価します。


統一されたサンボ式というものを見たことは

ありませんが柔道式はそのまま自己防衛ですから

つまりそのままサンボです。

なにをやるかやらないかではないわけです。

なにができるかできないかでもありません。


目的の一語をくわえただけですが思考の整理ができて

とてもシンプルに理解することができます。


形や道という理念をもった武道をバックボーンにして

サンボ競技に臨もうと、形のない格技たとえば

レスリング技術で臨もうと同じことです。


とくに真新しいことを言っているわけではありません。

これまで、あるいは現在愛好者の皆さんが練習や試合で

されていることをそのまま言葉にしているだけです。 

 

繰り返すようですが

柔道部の選手がサンボ競技に出てきて

内股や大外刈りだけで戦おうと、レスラーがタックルだけで

戦おうと、立ち技が苦手な選手が引き込みから関節技だけで

戦おうと自己防衛が目的なのだからどれもサンボである

ということです。

もちろんロシア風やモンゴル相撲風に戦おうとする選手もサンボです。

サンボであるかどうかはいわばこの訳に適っているかどうか

ということです。

武器を持ったらサンボではないということも言えます。


体系立てられ統一された教育基準が存在しない以上

サンボは個人単位、道場・ジム単位でそれぞれにつくり上げて

いくものといってよいでしょう。

ここで言うまでもなくすでに実際そうなっていますが。


ここではサンボについての認識を今一度前提から

見直して述べてみたいと思います。


【○○流サンボ】

私がこの道に入った時から師がそう言っていましたが

この基本的な考え方は今も変わりません。

サンボはみな個人商店のようなものです。

A選手のサンボ、○○コーチの技術、XX地方の特徴という具合です。

統一され決められた認識が無くそれぞれに自己防衛の目的を

追求してゆけばむしろそれは自然な流れだといえるでしょう。

個人的には経験を積めば積むほどそう考えたほうが辻褄が合うように

なってきています。

よってこの自己防衛目的に適っている以上本物も“もどき”もありません。

皆サンボなのです。

あるのはサンビストとしての実力やレベルの違いでしょう。

是非や定義とレベルの話を混同すべきではありません。

 

【柔道から】

あくまで私見ですが初心者は柔道から入るのが近道だと思います。

私の師と同じ意見になっていますが。。

サンボ競技で必要な基本は柔道で学べます。

そしてそれらを日本語で学べる柔道が日本人には最適でしょう。

姿勢から受け身、体捌き、組み方といったイロハから

一通り学べます。

基本を学んだあとサンボのルールに適した練習を始めても

全く問題ありません。

むしろ順序良く学べます。


私自身ヨーロッパ、ロシア、中央アジア、アメリカと

様々な土地で格技経験をさせていただきましたが

ジャケットを着けた競技ならどこも受け身、打ち込み、投げ込み等の

柔道で基本とされる練習を多かれ少なかれ取り入れていますし

必要とされます。

私自身各地での練習方法に適応できたので

どこへ行っても大変助かりました。 

もちろんそれらの練習方法を習得できるなら

サンボの指導者から学んでもよいと思います。


【完成度】

完成度という言葉はサンボにはあまり似合いません。

完成などされていませんから。

「国家レベル」や「国家の威信をかけて」等の言葉で修飾されてきた

サンボの言語空間ですがそれは技術体系的な完成度を指すものではない

といってよいでしょう。

ソ連やその衛星国家に分布する各国の民族格技やその特徴を

収集しそれらに携わってきたみんなが参加しやすい「ルール」

について国家の管理下の組織や委員会などで相談されたのでは

ないかということは想像できます。

そういう意味では国家レベルという表現もできるかもしれません。

袖がない衣装で戦うフォークなレスリングの選手がサンボにも

参加しやすいように肩当てをつけたりモンゴル相撲の力士が

参加しやすいように帯を取ってもよいことにしたり。

サンボジャケットは事実そのように工夫されています。

作ったのは「それやってもいいよ」という

最大公約数のルールということなのではと思います。 

反対に、完成度という言葉は柔道を例にとれば分かりやすいと思います。

柔道は試合ルール以外に形、言葉、所作等細かに規定されています。

ひとつの世界観が構築されているかのようです。

ほぼ単一民族の日本人が対象であったのですから

それでよかったのでしょうし

完成度を追及する日本人の特質を垣間見る気がします。

一方サンボはその創設の目的がそもそも異なりますし

複数民族で形成されていたソ連と日本とは背景がまったく異なります。

強いて言うなら完成度が高い選手がいるということになります。

自由に工夫する、研究する、そして創造してゆく土壌がサンボの特徴

とも言えます。

ただ気を付けなければならないのがこの自由という言葉である

ということも付記しておきます。


【目的論へ】

サンボにはいわゆる柔道でいう崩しが無い等の主張があります。

その他、サンボには引き手、釣り手の認識はない

サンボは上から持つ云々。

そうでないとサンボではないかのように

伝える記事も見受けます。

結論から申し上げますがそんなことはありません。

現場では混乱するかたもなかにはおられるかもしれませんので

述べさせて頂きますが

崩しを使って投げを教える道場があっても当然いいわけですし

それは先に述べた○○流で片付く話です。

引き手・釣り手に関してもしかり。

引き手、釣り手をしっかりもって戦ってもよいわけです。

上から持つよう指導する道場があってもいいし下から持つ指導を

する道場があってもいいわけです。

投げの目的は投げることですから。

「○○という認識はない=あってはいけない」ではありません。

よって引き手釣り手を中心に自分のサンボを構築しても

サンボなのです。

実際の試合映像など見れば一目瞭然ですし

海外の指導者が集まる講習会のような映像をみてもわかります。

崩しはあってもなくてもいいのです。

柔道はじめその他の競技の選手が混在するサンボ競技において

これは柔道の崩しだから、とか引き手だからなどといった

使い分けなど反則でもない限りするものでしょうか。

そもそもそのような決まり事など聞いたことは私はありませんし

統一認識が書かれた文献などがあれば見てみたいと思います。

 

サンボ式】

例をあげてみますが

柔道でいう内股(ウチマタ)に似た技があります。

サンボでなくても他競技でも見られます。

似ていますが柔道で説明される内股には見えないケースもあります。

説明も日本でいう内股とは異ることがあります。

実際私も海外の方からレクチャーを受けたことがあります。

そういうやりかたもあるのかと思うこともあります。

かといってそれがサンボなんだ!というのは早計です。

それ以外がサンボではないという根拠がまず示されていません。

これが柔道式でこれがサンボ式の○○という区別は

ナンセンスに感じます。

目的は投げることですからどちらでもよく

どちらもいわば自己防衛=サンボなのです。

恐らく一部の海外の選手のやり方が日本のそれと違うことをみて

そこに差別化したい気持ちが表れたことと思います。

ただそれはどうしたら相手を投げられるかを工夫し

研究した結果の違いでしょう。

つまり突き詰めれば目的なのです。

こういう点にもサンボ競技に形が無いことの自由さが

表れているとも言えます。


崩しは投げるにあたり人間の反応や自然の摂理を生かしたものです。

崩しができるならこの有効な技術をどんどん使うほうがよいでしょう。

背負いも内股もやってもいいし有効だけどサンボではない云々

などという説得力のない腰の引けた解釈をする必要は

まったくありません。

連絡技、連続技に関する点も同様です。

なくてもいいしあってもいい。ただそれだけです。


サンボ競技と他競技の

意図的な差別化は見直すほうが良いと思います。

恣意的な差別化はなおさらです。

選手や現場を混乱させるだけです。


戦略、戦術があってもなくてもそれは同じです。

サンボは戦略・戦術中心に考えるものという主張を

そのままサンボであるか否かの基準にスライドしてくる主張も

あるようですがそれは本質的に的を得ていません。

戦略戦術があろうとなかろうとそれがサンボかどうかとは

関係がありませんし別の話です。

形容しがたいサンボをどのように表現するべきかを思慮した

のではないかと推測はできますが

そもそも他人のプレイ内容をみて戦術の有無など計れるものではありません。

主張されるご本人にそう見えるのは単に「そう見たい」のだろうと思われます。 

他人にはジャッジしようがない基準なのです。


例えばベテランズ大会で80歳の選手が互いに5分間組んでいるだけの姿も

小学校上がりたてくらいの子供がキッズのサンボ大会で

無心に技を掛けようとしている試合もどちらもサンボです。

戦術を組み立てて臨んだが最初の数秒で頭の中が真っ白になって

戦おうともそれはサンボです。

私もそんな体験ひとつやふたつではありません。

でもどの試合もどの瞬間もサンボであると自負していますし

審判も相手もセコンドもそれに異を唱えてきたこともありません。

当たり前ですが。


「違いから否定」論はその他

レスリングや柔道、サンボを並列に述べ

西洋的であれば~とか東洋的であれば~というものもありました。

大雑把ですがスケールの大きな内容と言い換えることもできます。

もう文脈から把握が可能ですが

西洋的ならサンボ、東洋的なら否という内容です。

この場合もその根拠が不明確にされたままです。

もちろんサンボは洋の東西でその可否が決まるものではありません。


そもそもご本人が西洋と東洋のレスリングを

どの程度経験をして言っていることなのでしょうか。

その他柔道とJUDOそれぞれのサンボとの相違など

多岐にわたる主張を目にしてきました。

それらの主張の根拠を今後は見てみたいものです。


サンボの国際大会にはフィリピンもいればカザフもいるし

ブルガリアやロシア、アメリカ、日本もアフリカも台湾もいます。

そんな中で上記の主張を述べる方が槍玉に挙げるのはたいがい

日本人選手です。

反対にお手本はだいたいロシア選手です。

それが下手でも上手でも。

あまり公平な見方とは思えません。

おそらくロシアの選手がやっているやり方が本物であり

その他は偽物であり、もどきだといった思い込みや刷り込みでも

為されているとしか思えないレベルです。

先ほども述べましたが

そもそも当のロシアの中でもやり方などまとまっていません。

原理原則という言葉を時々もちだしたりしていますが

護身や勝敗という目的を超えてまでも守るべきサンボの原理原則って

いったい何なのでしょう。

それすらも明確にされたことはありません。

これまでに挙げたような主張を以って、それにあたらないものは

サンボではない、もどきであるというのなら

その根拠をもう明確に示すべきではないでしょうか。


【二人の師も自分流サンボ】

私にとってサンボの師と言える存在は二人います。

これまで指導をしてくれた仲間やコーチとは別に二人です。

でもタイプややり方もまったく水と油というか正反対のようでした。

ただとても独創的、創造的で既存のカタチや考え方にはまらないお二人でした。

お二人とも既に鬼籍に入られているので

もう映像でしかお目にかかれませんが

映像を見るだけでもサンボを追求する姿勢が

自己防衛という目的ただ一点に貫かれているのがわかります。

お二人はどこか互いを認め合う友人同士であったそうなのでなにか

相通じるものがあったのではないでしょうか。

そして独創的というのが二人に共通する点です。

誰も知らないから防ぎ方が

知られていない・反応できない・わからない→勝つ

という図式を地で行くサンボ人生だったと思います。

ともあれ私の師たちのようなサンボでなくても

スポーツライクな内容であっても

サンボであることには違いありません。

お二人の高弟たちはその技術や哲学を受け継ぎ

○○流のサンボを継承しているようです。

継承し伝承してゆく過程で工夫や改良が加えられてゆき

変化してゆくこともあるでしょうがそれでよいのです。

○○道場のサンボ、XX流のサンボがあり

どれが本物でありどれが偽物、もどきというものではありません。


【ありのまま】

「それは柔道でありサンボではない云々」という主張で

他者のプレイや指導内容を否定される方が

「私は現役時代、中身は柔道家でした」と

自分の過去について漏らしている方もおられます。

ご自身の論をそのまま借りれば

自分は現役選手としてサンボをやったことはないと

言っているのと等しいことになります。

サンボ選手ではなかった、ということです。

サンボジャケットを着た自分の試合写真をしっかり載せているのに。

現役時代の自分は現在自分が否定しているような選手であり

サンボはやったことがないけど

何かの都合からなのか、写真などで自分はサンボ選手をアピールし

指導者をしていることになります。

なぜ実戦をやったことがない(と本人が告白している)のに

サンボの実戦を語れるのでしょうか。

他者の是非やもどき呼ばわりまでできるというのでしょうか。

ここにはご都合主義や矛盾しか感じません。

柔道で培った技術以外の技を現役時にやったことがないので

中身は柔道家、つまりサンボではないというなら

現在サンボだとして指導している技術は

いつその効果を試したのでしょう。

ともすれば試合や実戦ではその効果を試したことが無く

結果を出したことが無いということも考えられます。

つまり試合のように本気で抵抗する相手に効果があるのかどうか

自分でもホントはわからないということではないでしょうか。


他の競技に置き換えた場合、自分では使わなかった技術などを

生徒に指導することはある、という方は

現実的にたくさんおられるでしょう。

指導者とはそういう立場でもあります。

ただ少なくともご自分もその競技の選手だったということが

多くの場合において求められるのではないでしょうか。


しかし「○○はサンボではない」論の方はご自身はサンボを

やったことがない(とご本人が言っている)のです。

もはや前提となるところから疑問を感じざるを得ません。


もしそうなら実用レベルではなく知識レベルとも言えます。

さらにそれが指導者であったなら

自分は本物、あちらはもどきで偽物であると

断ずる態度はいかがなものでしょう。

”国家レベル”で開発されたとご自身が仰るサンボを

いったいどんなレベルで指導されているのでしょう。


他者を否定する震源地の実態はこのようにありのままなのです。

すべてのものは自明であるというデカルトの言葉が

この場合意味するのはいったい何でしょうか。


そういった方々のサンボを否定しているのではありません。

述べてきましたようにどれもサンボなのですから。

そのサンボ論が都合よく恣意的で矛盾していると言っているのです。

かにばさみや飛びつき十字固めを披露して、これがサンボでござい!

という紹介はもうやめるべきという主張があったように記憶していますが

かにばさみや飛びつき十字固め「ではない、だけど柔道でもない

チョット変わった何か」の場面を探してきてこれがサンボである

といったような伝え方をしているなら五十歩百歩で、結局同じことを

しているように私には見えます。


このように「ではない思考」をしていたら

自己防衛という最も大切な目的を果たそうとするとき

妙な思い込みがブレーキになりその障壁になってしまいます。


無理がある修飾語もいったん取り外したほうがよいのではないでしょうか。


食堂で豚汁をたのんで味噌汁がでてきたら頭が混乱します。

たとえ味噌汁としておいしくてもお客様は引いていきます。

修飾語やネーミングや看板はそういう影響力も含んでいます。


サンボはこれから目的論へパラダイムシフトすべきと考えます。

そうすれば遠回しに自己否定する必要もありませんし

自分の歴史とのつながりや着地点も見いだせることと思います。

中身が柔道だったとしてもそれも立派なサンボなのだと私は思います。


【適応の幅広さ】

サンボではいったい何が求められるかというテーマに入っていきます。

もっとやさしくいうと今すでにみなさんが取り組まれていることを

単に言語化してみるということです。

すでにサンボに取り組まれている方はご存じだと思いますが

サンボでは相手が何者かわかりません。

背負い投げが得意な選手なのか片足タックルが得意なのか。

サンボ競技の参加者でありながらそのむこうに別競技のバックボーンが

ある選手が多いでしょう。

そもそも競技の生まれからそういう成り立ちですからそれでよいのですが

選手にとってはこれらの多彩な相手と対峙するにはそれだけ適応の幅が

求められるということになります。

自分は大外刈り主体で投げのサンボでも相手は同じように

投げで戦う相手かどうかもわからない。

それどころか足取り名人かもしれない。

引き込みから関節技へ持ち込む名手の相手は引き込まないどころか

反り投げの達人かもしれない。

胴タックルを得意とする選手の相手は

胴タックルなどやったこともなくアキレス腱の極め方が

多彩なひとかもしれない。

最大公約数ルールを設定したのですからそうなります。

サンボは相手との共通認識の差が幅広いと言い換えることも可能です。


例えばレスリング競技ならフリーであれグレコであれタックルが

共通認識としてその前提にあるでしょう。

柔道なら大概投げがそれにあたります。

空手なら突きや蹴りでしょう。

もちろんこれに当たらない組み合わせもあります。

他競技でも相手と共通認識に差があるのは自然なことではありますが

サンボではそれが非常に幅広い。

何者かわからないとはそういう意味です。

裏返せば個々のバックボーンとなる競技は

それぞれ専門性が高いともいえます。

このようにサンボに参加してくる多彩な相手の攻撃から

自己を防衛しつつ自分の主武器でトーナメントをいかに勝ち抜くか

という課題が突き付けられます。

こういった点がサンボが他競技と大きく性格を異にする点です。

個々に備えた前提が違うのですから嚙み合わないという

見方もできます。

このように予想しずらいサンボの試合に備えて、できる限り

想定をしておく姿勢が求められます。相手のタイプや戦い方を想定して。

自分の得意技はなんでもよいのです。

ひとつでもいいしふたつでもよい。

タックルでも投げでも引き込みでもよいのです。

もちろんモスクワやウズベクの町道場の先生に教わった技でもよいのです。

大切なのはそこにもっていくまで、フィニッシュにもっていくまでの

対応力ということもできます。ディフェンス能力とでもいうのでしょうか。

互いにサンボジャケットこそ着てはいますがそれは最低限のルールであって

それ以上の共通認識を示すものではないのです。

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私の推測ですがサンボが創設されたソ連時代において

各地方各国からできるだけ多くの参加者を募るためには

こういった雑ともいえるルール設定のほうが良いと判断したとも

考えられます。

前述しましたがソ連は人工国家で国内で言語も文化も違うのですから。

ハードルは低いほうがよかったという事情はあったかもしれない

ということです。

着衣格技の最大公約数とはそういうこととも解釈できます。

その名残は試合の展開が数字(ポイント)で評価され審判のジェスチャーと

ホイッスルで試合が進行されるところに見られる気がします。

レスリングなどの競技と同じです。

指の本数、数字で評価しますので言葉の違いを超えてわかりやすい。

レスリングもどのような技を繰り出そうと数字とジェスチャーで評価されます。

つまりサンボ同様言葉の違いも解釈の違いも問いません、ということも

言えそうです。

つまり日本語で考えてもいいわけです。

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このようにあらゆる局面に対応しながら自ら主導権をとりにいく

作業、練習を重ねその能力を高めてゆくことが

レベルの高いサンボ選手になってゆくことにつながります。

逆説的に言えばサンボの代名詞のようになっている足関節技が

できなくてもよいのです。

足関節技がどういうものかを知って、しのいで守り切れば

それも自己防衛のひとつです。

投げでもおなじです。いろんな投げができなくてもよいのです。

ただ、サンボの場合極端に低い姿勢を取ったり帯をとる相手も

おりますから対柔道の前提だけでは思うようにいきません。

ルールに合わせた研究が必要になってきます。

勿論自分も足関節技や投げを習得してチャンスとあらばきめて

相手を制御できるようになるのも自己防衛の方法です。

これがサンボで求められる適応の幅広さということです。

 

サンボは現在スポーツサンボ(サンボの中でもっとも古い競技種目)

コンバットサンボ、ビーチサンボがあります。

どれもルールが全く異なる3つのサンボです。

サンボとはこのようにその場のルールにいかに適応できるかを

競い合う競技とも言えます。

他の格闘競技にはない特徴です。形や言葉が無いけれど

適応であるという哲学は垣間見えます。 

ジャケットを着ず、絞めなどを導入した4つめのサンボが今後設定されれば

選手はそのルールでいかに適応してゆくかを模索しなければならない

というわけです。

以前川口スタイルという種目名でこの4つめのサンボを川口で開催したのも

こういいった観点からです。

こうした視座から俯瞰してみれば日本の武道も相撲も海外のローカルな

レスリングもすべてサンボに見えてきます。

フリースタイルもグレコローマンも、極め技を禁止した裸のサンボであるという

やや拡大した解釈も可能なわけです。

場への適応であるという哲学は同じであり目的も同じなのです。


【競技においてサンボかどうかは審判が判断】

日本の武道には柔道や空手、合気道などといったものがあります。

とくに柔道はサンボと実践において重なる部分が非常に多く

よく比較されそれゆえに先述のように混乱も生まれました。

ただ柔道には形や言葉があります。

試合においては日本語で進行されます。

「ハジメ、マテ、ソレマデ」という具合に国際大会でも同様です。

決まり技の名前まで共通認識されます。

ウチマタ、オオソトガリというように。

ですがサンボではそういった類のものはありません。

これまで見たことも聞いたこともありません。

あるとするなら各自の頭の中です。

なのでサンボでは投げ技が決まればそれはいわゆる一本か

そうでなければ何点で評価するかということになっています。

サンボかどうかあるいはなんという名前で宣告するのかという

規定もありません。 

(ないというだけであってもいいのです。各自の中で)

サンボには技もそれを指す言葉も名前もきまっていませんから。

そしてレフェリーも言葉ではなくホイッスルとジェスチャーで示します。

試合場はレフェリー、チェアマンらによるジェスチャーと数字による

評価なのです。

その技がモンゴルではなんて言う技なのかとか、カザフではなんていうのか

柔道の燕返しじゃないのかとかそういうことは審判たちの

判断基準ではないのです。

各自が自由に頭の中でやってくれというものです。

明確な根拠を示さない「それはサンボではない」論は

彼ら審判団を無視した発言でもあります。

競技上サンボではないなら審判団は反則として宣告します。

競技であれ日常の護身といった状況であれ

自らに襲い掛かってくる相手に咄嗟に素手で対応した反応は

どれもサンボだと言えます。

先の訳になにひとつ矛盾するところはありません。

日常ならルールはありません。

武器さえ持たなければサンボと呼んで差し支えありません。

競技ならルールから逸脱した行為がサンボではない=サンボとは

認められないということになります。反則のことです。

長らく述べてきましたが

サンボにまつわる本物、偽物、もどき論のようなものは

実はここで終了してしまうのです。

 それほどシンプルなものなのです。

サンボのイメージ拡散や構築にはメディアによる影響が大きかったかも

しれませんがそれとて本質を伝えるのが目的ではなく

本なら部数の伸びが目的です。

映像なら視聴回数や率の伸びが目的です。

○○はサンボではない、XXがサンボだ、という意見や主張は

自由ですがその主張とともに根拠を示すのが他の愛好者への

礼儀ではないかと考えます。そのほうが建設的です。

誤った方向へ進まずに済むひとが減るでしょう。

~~である。だからXXはサンボではない という具合に。

ですが今までそういった根拠が示されたことは

一度もありませんでした。

少なくとも私は見せてもらったことはありません。

私が知る限り30年以上の長きにわたってこの不毛ともいえる

言語空間が続いています。

サンボに興味を持ち強くなろうと練習しながらも

これはサンボなのかそうではないのか どうやったらサンボなのか

などという迷路の中でこれからのひとに

存在さえも不明で見たこともないような青い鳥を探させるような伝え方は

もうやめにしたほうがよいでしょう。

 

サンボをはじめてみて「何をやればいいの?」という

迷路にはいってしまったかのような疑問から

じゃあ自分がサンボを体系立てていこうという気持ちに発展しても

不思議なことではありません。

これはむしろサンボにはそういうものがないんだ、とその方自身も

自覚したという裏返しになります。

体系立てようという志や行為までは建設的でよいことと思うのです。

ただそれはそのまま「これは私のサンボです」というのが筋の通った

伝え方ではなかったでしょうか。

少なくとも私の師はそう言っていました。

「(教えている)これは俺のサンボだ」と。

自論を進めたい気持ちが強いあまり他者の否定に走ったはいいが

その根拠を示さないのでは傍らでサンボを愛好している人たちを

混乱させるだけです。

「サンボは俺のものだ」と伝えているかのようです。


サンボは一競技ですからそんなはずはありません。


「これがM道場のサンボです、C先生の技術です」が

最も似合う表現だと思います。 


いまでもサンボを始めたはいいけど迷いはじめて

混乱してしまっているひとがいます。

具体的になにをやればサンボなのか

いつまでも明らかにならないのです。

それを身に着ければ他の競技では勝てなくても

サンボでは負けないのか。

大会の時だけぽっと出てきた選手相手にサンボを習ったはずの自分は

全く勝てない、習った技が通用しない。。。

相手はサンボではないはずなのに・・・。

 

妙な慰めではありませんが相手もサンボだったのです。

アキレス腱固めをやろうとやるまいと

背負い投げだけで優勝しようと。

 

“新しい格闘技サンボ”を習った方にとっては

消化不良を起こす情報の空間が作られていたということ

かもしれません。

 

根拠があいまいなまま差別化をするあまりに

自己防衛というサンボの目的に適っているのに

実戦に有効な技術であっても

「それはサンボではない」という理由から

指導内容から排除してしまった結果ともいえます。

そんな指導の場面を幾度となく目にしてきました。

「柔道ではないもの」で指導する、かのようです。

 

柔道の組み手に対してはこうしてディフェンスする、とか

体落としが得意ならそれをさらに磨いて

逆にお前がやられそうだったら

サンボルールではこんな組み手で封じることができるぞ・・・


と、こんな発想で指導がなされればまたちがった現実が

見られたのではないかと思うわけです。


こうしたこれまでの指導の下で

数年間やってみたが結局サンボから離れ柔術など他の競技に

転向したという方もいます。

3年間サンボやったけど全然強くなれなかったが

ブラジリアン柔術をやったら上達具合が手に取るようにわかった。

嬉しいと言っていました。


サンボの歴史の中でそういう時代だったということも勿論可能です。 

ですがこれからの指導者はこういった現状を把握し

サンボとはなにかを改めて整理し

サンボには決まったやり方などなく

そのひとのサンボがあるだけであるという認識を伝え

そのうえで指導なりしてゆくべきではないかと考えます。

 

サンボの愛好者の中にもこれらの差別化・違いから否定論を

なんとなくそうなのかなぁと受け入れている方は

実際多いかと思います。

どのような解釈をするかは自由ですしひとそれぞれです。

それでサンボを愉しめてるなら何も言うことはありません。

ただ、それらを受け入れたがゆえにいつまでもどこか釈然とせず

いつのまにか迷路に入り込み、「本当のサンボ」という青い鳥を

探しているような状態になっているのなら

再び問うてみるよい機会だと思います。

その迷いの源泉は何なのか。


前述のような主張をされる方のなかには

海外での修行経験を持つ方もおられるようです

そのことが「本物のサンボを教えているんだろうな・・」

というイメージを相手に抱かせる心理的作用もはたらくでしょう。

旧ソ連圏なら渡航経験のある方もごく限られてきますから

これが本物、あちらは偽物といわれればそうなのかもしれない

となり得ます。売り手市場なわけです。

ただやはりサンボは本物・偽物という二元論ではありません。

目の前の指導者がそういう指導をされるひとだったなら

「そういうサンボを習ったんだろうな」と

今後は受け取り方を変えれば済む話です。


その指導者の方に確認されるのもよいかと思います。

その方の「留学」の中身をしっかりと。

いつ、どこで、どのくらいの年数や歳月をどのように修行されたのか。 

「XXで暮らしていた、私の△△時代」 

という言葉の響きのままであるかどうかを

把握されるほうが互いのためであると思います。

 もちろん留学の年数や場所が価値を決定するものではありません。

何時間であろうと何日間であろうと問題は中身です。

何を得てきたかです。


どこかの知事や政治家ではありませんが

「箔がつく」などの理由で留学や渡航経験をイメージ戦略に

使っているケースがないとは言えません。

当然ですが留学や体験ツアーの是非を言っているのではありません。

むしろ私は経験は替え難い価値があると思います。

私もそういった経験はあります。 

現在そういう活動をされているクラブもありますし

その経験はきっと役立つものと思いますし

自身のサンボを作る糧になるでしょう。


サンボに限った話ではありませんが

渡航経験、留学経験をなんらかのキャリアアップなどに

利用することはよくみられます。

穿った見方になってしまいますが

ホンモノを匂わせるには多少効果があります。


渡航経験は幅広さをもたらしますし

肥やしになりますがそれ自体がもちろん本物、偽物の基準には

なりません。

サンボとはそういう類のものではありません。

サンボ論の正しさを担保するものではないということです。 


そして私はそういった指導者が偽物だとも

言っているのではありません。

それ「も」サンボだと言っているのです。

 

その経験が自論の土台や前提となっているのかもしれませんが

それにしては場面の切り取りや恣意的な解釈が目につきます。

柔道との違いやそれに絡めて他者否定するための主張

のようなものが変遷していったり

一貫性が無いのも逆に興味深い点でもあります。


日本人選手が国際大会で結局最後に強い選手(例えばロシア)に

勝てない→なぜならそれはサンボではないから、と匂わせる説明を

拝見したことがあります。

では優勝したその選手に勝てなかった選手はみなサンボ選手ではない

というのでしょうか。

サンボではないとされた日本人選手に準決勝以下で負けた選手も

もしかしたらみなサンボではないということも言えそうです

この論法なら。

それではいったい何の大会だったというのでしょうか。

もう何をかいわんやです。


サンボの某国際大会では柔道部所属の日本人選手が出場し

優勝を飾ったのですが、どれだけサンボの練習を積んできたのかという

インタビューに対し日本選手団は数か月と答えたそうです。

でも実際のところは数日間だったということです。

準備期間があまりに短期間だったため

瞬時に他競技への配慮からか長めで答えたというのが

その心だったそうですが

先の「決勝で負けたのはサンボではないから」という

主張をされた方のこの優勝への言及はなにもありませんでした。


【比較の対象としての存在か】

世界には様々な格技が存在しますが

競技において基本的にはどれもルールに則っていれば可です。

相手が勝ったとしてもそれはXXではない、などという発言は

むしろ矜持があればそう簡単に出てくる言葉ではないでしょう。


サンボという競技に長年身を置いて外から日本の柔道などを眺めたとき

日本の武道がむしろ世界では特殊な存在と言えるかもしれません。

前述しましたが競技以前に言葉や理念を表す形があります。

道という強固な理念や世界観と独自性を持っていました。

ところがサンボでは言葉がありません。ないというより規定されていません。

そういう発想自体が無かったのかもしれません。

サンボの試合で払い腰や巴投げが見られても

それを見る個々で認識が異なるわけです。

そういった競技を普及する場合、言葉がないなら日本人相手なら

そのまま払い腰や巴投げといった呼称でよいだろうという伝え方に

なってゆくことは容易に想像できます。

もともとオシェプコフ師が習得した柔道がはじまりであり基礎になっていますから

それでも問題はないかと思いますがそこは当時の日ソ関係等の政治的な事情も

絡んでいたかもしれないとも推測できます。

ただ一方では多様な国々と文化を急激に内包したため整合する間も

なかったかもしれません。

話を戻しますが要は伝えるための言葉の変換からはじまるこの現象が

このサンボではない論へ繋がっている気がします。

言葉は国際的に規定されてないけれどサンボにも独自の理念や方法が

あるはずだという思考回路です。

つまり確固たる独自性をずっと探し求めているわけです。

武道発祥の国の日本人ならではの模索の方向性かもしれません。

そんなとき海外の個性的な選手や試合展開を目にすれば

探していたなにかをそこに見たような気になっても不思議はありません。

ただやはりそれが確固たる独自性と言えるものではなかったわけです。


ただフォーカスする点を移せば独自性はあります。

上記に挙げたようにサンボはすでに3つあるのです。

さらに新しいルールを設定してもよいはずです。

このような競技はほかにありません。

設定された条件にどのように適応してゆくかという

課題においてはどれも共通しているのです。


旧ソ連圏の国やヨーロッパではそれぞれのお国柄や土地柄に合った

サンボが道場単位、個人単位で形成されています。

アメリカ、アジアでも同じです。

お互いにサンボとはそういうものという認識がなされているようです。

つまり条件と目的に適っている限り

どこの国のどんな武術でもよいのです。

「〇〇はサンボではない」が成り立たないのです。